青山学院大学陸上競技部に所属していた皆渡星七(みなわたり・せな)さんは、2025年2月19日、21歳の若さで亡くなりました。関西大学北陽高校から青山学院大学へ進み、箱根駅伝の登録メンバーにも名を連ねた長距離ランナーです。2025年1月には、前年11月に悪性リンパ腫と診断されたことを自身のSNSで公表し、「がんになっても箱根を目指したい」という思いを発信していました。
青山学院大学陸上競技部は同年2月21日、公式サイトで訃報を発表。原晋監督も追悼の言葉を寄せました。2026年現在、皆渡さんの競技人生を振り返るうえで重要なのは、病気との闘いだけではありません。大学駅伝の舞台を目指し続けた努力、闘病を公表した理由、そして本人が残そうとしたメッセージにも目を向ける必要があります。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 経歴:大阪府豊中市出身。関西大学北陽高校を卒業後、青山学院大学経営学部で学びながら陸上競技に取り組んだ。
- 病気公表と訃報:2025年1月19日に悪性リンパ腫の診断を公表。2025年2月19日に21歳で亡くなり、同月21日に大学陸上競技部が発表した。
- 箱根駅伝との関わり:第100回箱根駅伝で登録メンバー入りを果たし、2024年11月の全日本大学駅伝でもエントリーメンバーに選ばれていた。
- 原晋監督の追悼:「君と出会えて本当に良かったです」と述べ、皆渡さんの前向きな姿勢と努力を後世に伝える決意を示した。
【皆渡星七さんのプロフィール】出身地・年齢・大学での経歴
皆渡星七さんは、2004年2月2日生まれ、大阪府豊中市出身の陸上競技選手です。読み方は「みなわたり・せな」。関西大学北陽高等学校を卒業後、青山学院大学に進学し、経営学部経営学科で学びながら陸上競技部の長距離ブロックに所属していました。
2025年2月19日に亡くなったことが公表され、享年は21歳でした。大学在学中に競技生活と闘病を経験したことから、駅伝ファンの間だけでなく、病気と向き合うアスリートの生き方という観点からも注目を集めました。
人物情報を整理すると、次のようになります。
- 氏名:皆渡星七
- 読み方:みなわたり・せな
- 生年月日:2004年2月2日
- 出身地:大阪府豊中市
- 出身高校:関西大学北陽高等学校
- 大学:青山学院大学経営学部経営学科
- 所属:青山学院大学陸上競技部・長距離ブロック
- 専門種目:中距離走・長距離走
- 死去:2025年2月19日、21歳
皆渡さんについて調べる際は、氏名の漢字だけでなく、「みなわたりせな」という読み方も手掛かりになります。また、芸能人や実業団の選手ではなく、大学陸上競技部で駅伝を目指していた学生ランナーだった点が、経歴を理解するうえでの基本です。
【競技人生を振り返る】関西大学北陽高校から青山学院大学、箱根駅伝へ
皆渡さんの競技人生をたどると、関西大学北陽高校から青山学院大学へ進み、大学駅伝の主要大会でエントリーメンバーに選ばれるまでに成長したことが分かります。
青山学院大学は、箱根駅伝をはじめとする大学駅伝で実績を積み重ねてきた強豪校です。長距離ブロックの選手にとって、登録メンバーに選ばれることは、チーム内での競争を経て大舞台に近づいたことを意味します。ただし、登録された選手全員が実際にレースを走るわけではありません。
スポーツニッポンや日刊スポーツなどの報道によると、皆渡さんは第100回箱根駅伝で16人の登録メンバーに入り、7区に登録されていました。しかし、レース当日のメンバー変更により出走はありませんでした。
その後も競技を続け、2024年11月の全日本大学駅伝でもエントリーメンバーに選ばれています。箱根駅伝や全日本大学駅伝の登録実績は、皆渡さんがチームの一員として大舞台を目指していたことを示す記録です。
月刊陸上競技などの報道では、皆渡さんの自己ベストとして、5000メートル13分51秒38、10000メートル28分49秒30、ハーフマラソン1時間3分30秒が紹介されています。特に5000メートル13分台、10000メートル28分台という記録からは、大学長距離界で競技に取り組む実力を備えていたことがうかがえます。
一方、箱根駅伝の出走歴については、登録と実際の出走を区別することが欠かせません。皆渡さんは第100回大会の登録メンバーでしたが、箱根駅伝を実際に走った選手ではありません。「箱根駅伝の登録メンバーとして出走を目指した選手」と整理するのが正確です。
【時系列で整理】2025年1月の悪性リンパ腫公表から2月19日の訃報まで
皆渡さんの病気公表から訃報までの経緯は、2025年1月19日、2月19日、2月21日という3つの日付を軸に整理できます。本人による公表と大学による訃報発表は、それぞれ異なる意味を持つ出来事でした。
| 時期・日付 | 出来事 | 確認できる内容 |
|---|---|---|
| 2004年2月2日 | 誕生 | 大阪府豊中市出身。 |
| 高校卒業後 | 青山学院大学へ進学 | 経営学部経営学科に在籍し、陸上競技部で活動。 |
| 2024年1月 | 第100回箱根駅伝 | 16人の登録メンバーに入り、7区に登録されたが当日変更で出走せず。 |
| 2024年11月 | 悪性リンパ腫と診断 | 後に本人がSNSで診断を受けた時期を明らかにした。 |
| 2024年11月 | 全日本大学駅伝 | 青山学院大学のエントリーメンバーに選ばれた。 |
| 2025年1月19日 | 病気を公表 | 前年11月に悪性リンパ腫と診断され、治療を続けていることを自身のSNSで発信。 |
| 2025年2月19日 | 死去 | 21歳で亡くなった。 |
| 2025年2月21日 | 大学陸上競技部が訃報を発表 | 公式サイトに追悼文を掲載。原晋監督も追悼コメントを発信した。 |
病気公表を伝えた2025年1月20日付の日刊スポーツやスポニチの記事では、皆渡さんが前年11月に悪性リンパ腫と診断され、治療を続けていることが報じられました。本人が発信した文章のタイトルは「がんになっても箱根を目指したい」でした。
この言葉には、病気を公表した時点でも、競技への目標を手放していなかったことが表れています。皆渡さんは、自身の経験を通じて、がんと闘うアスリートや、これから病気に直面するかもしれない選手に向けた記録を残したいという思いを示していました。
その約1か月後の2月19日、皆渡さんは亡くなりました。青山学院大学陸上競技部は2月21日、公式サイトに「大切な仲間の旅立ちに寄せて」と題する文章を掲載し、死去を公表しました。朝日新聞社の学生スポーツ媒体「4years.」やスポーツ報知、日刊スポーツなども、この発表を伝えています。
なお、病気の公表日と死亡日、大学による発表日はそれぞれ異なります。2025年1月19日に病気を公表し、2月19日に亡くなり、2月21日に大学が発表したという時系列を押さえることが重要です。
【死因は悪性リンパ腫?】病気公表の内容と明らかになっている範囲
皆渡星七さんの死因を調べる読者が最も気になるのは、悪性リンパ腫がどのように死去につながったのかという点でしょう。
公表されている情報によると、皆渡さんは2024年11月に悪性リンパ腫と診断され、2025年1月に自身のSNSで闘病を明らかにしました。その約1か月後に亡くなったことから、報道では病気との闘いが大きく取り上げられています。
ただし、青山学院大学陸上競技部が2025年2月21日に発表した訃報文には、死因の医学的な詳細や悪性リンパ腫の病型、病状の進行、具体的な治療内容までは記載されていません。本人が悪性リンパ腫と診断されたことは公表されていますが、そこから先の医学的な経過を一律に断定することはできません。
悪性リンパ腫は、リンパ球などの免疫細胞に関係する血液のがんの総称です。ホジキンリンパ腫や非ホジキンリンパ腫など複数の分類があり、病型によって治療方法や経過は異なります。一般論として、同じ病名でも患者ごとの状態や治療への反応には違いがあります。
したがって、皆渡さんのケースについては、「悪性リンパ腫と診断され、闘病を公表した後、2025年2月19日に亡くなった」という公表情報と、「死因の詳細や病状の推移については、大学の訃報文では具体的に示されていない」という点を分けて理解する必要があります。
また、陸上競技に取り組んでいたことや、大学駅伝の登録メンバーに選ばれる実力があったことだけで、病気の発見時期や進行の速さを推測することもできません。競技能力と病気の診断・治療経過は、別の問題として捉える必要があります。
【病気公表の理由】「がんになっても箱根を目指したい」に込めた思い
皆渡さんのSNSでの発信が注目された理由は、病名を公表したことだけではありません。治療を続けながらも、箱根駅伝を目指す気持ちを伝え、自分の経験をほかのアスリートに役立てたいと考えていた点にあります。
日刊スポーツの報道によると、皆渡さんは病気を公表する際、がんと闘っているアスリートや、今後がんになる可能性のある選手に向けて、自身の経験を記録し、発信したいという趣旨を説明していました。自分の前向きな考え方や内面的な成長も伝えたいと考えていたと報じられています。
さらに、スポニチが2025年1月21日に伝えた本人のnoteでの発信では、闘病について書き始めた理由として、主に次のような思いが紹介されました。
- 自分の発信を、がんと闘うアスリートにとっての参考にしたい。
- 自分自身が頑張り続けるための力にしたい。
- アスリートと応援する人とのつながりを大切にしたい。
病気を公表するかどうかは、本人のプライバシーや治療環境にも関わる選択です。皆渡さんは、自分の経験を他者に届けるという目的を持って公表を選びました。これは、闘病の経過をすべて公開するという意味ではなく、自分が伝えたいことを言葉にして残そうとした行動として受け止められます。
また、病気を公表した時点で「箱根を目指したい」と発信していたことから、競技への目標が本人にとって大きな意味を持っていたこともうかがえます。治療と競技復帰をめぐる具体的な見通しがどのようなものだったかは、公表された情報だけでは分かりません。それでも、目標を持ち続け、その思いを発信しようとした姿勢は、本人のメッセージの中心にありました。
この発信は、病気と闘う人にとっての希望を考えるうえでも示唆的です。前向きな言葉を発することと、治療の難しさや不安が存在しないことは同じではありません。本人の言葉を読む際には、強い意志を尊重しつつ、闘病を単純な精神論に置き換えないことも大切です。
【原晋監督の追悼コメント】青山学院大学陸上競技部が伝えた存在の大きさ
皆渡さんの死去を受け、青山学院大学陸上競技部は2025年2月21日、公式サイトに追悼文を掲載しました。チームは、皆渡さんを「欠かせない存在」と表現し、その活躍と情熱に感謝と敬意を示しています。
公式発表では、突然の別れに深い悲しみと喪失感を抱きながらも、皆渡さんが残した思い出を胸に前進していくという趣旨が述べられました。最後まで病気と闘った皆渡さんの旅立ちを、温かく見守ってほしいとの言葉も記されています。
原晋監督も自身のXで追悼のコメントを発信しました。デイリースポーツや日刊スポーツが伝えたコメントでは、皆渡さんの明るく前向きな姿勢と努力を「チームの宝物」と表現し、次のように述べています。
「君と出会えて本当に良かったです。」
「私は必ずかつてこのような学生がいた事を後世に伝え続けていく事を約束します。」
原監督の言葉で印象的なのは、悲しみを表明するだけでなく、皆渡さんがどのような学生だったのかを後世に伝えていくという決意を示した点です。競技の成績や大会結果だけでなく、チームで過ごした時間や日々の努力も、指導者や仲間の記憶に残るものだと伝わってきます。
皆渡さんは箱根駅伝で実際に出走した選手ではありませんでした。しかし、大学陸上競技部の公式発表は、箱根駅伝や全日本大学駅伝のエントリーメンバーとして共に戦ってきた仲間であることを明記しています。駅伝チームの一員として活動し、目標を共有してきたことが、追悼の言葉の背景にあります。
箱根駅伝は、実際に走る選手だけで成り立つ競技ではありません。登録メンバーの選考、日々の練習、チーム内の競争、出走を目指す準備など、多くの積み重ねによって大会を迎えます。皆渡さんの歩みは、レースに出場したかどうかだけでは測れない、大学陸上競技部での活動の意味を考えさせます。
【皆渡星七さんの現在】残されたメッセージと、競技人生が伝えるもの
2026年現在、皆渡さんは2025年2月19日に亡くなっており、競技活動を続けているわけではありません。現在の動向という検索語で情報を探す場合は、死去後に本人が活動を再開したかのような情報と、過去の闘病記録や追悼報道を混同しないことが大切です。
本人が病気を公表した際に伝えようとしていたのは、単に病気の事実を知らせることではありませんでした。自分の経験を記録し、病気と向き合うアスリートや、その周囲で支える人たちに届けたいという思いがありました。こうした発信は、競技復帰を目指す過程を通じて、同じような状況にいる人が情報や心の支えを得る可能性を生み出します。
一方で、皆渡さんの経験を、病気に打ち勝つことだけを唯一の成功として語るのは適切ではありません。本人が目標を持ち、発信を試みたことには大きな意味がありますが、病気の経過は本人の努力や気持ちだけで決まるものではないからです。
また、箱根駅伝との関わりを振り返る際には、登録メンバー入りと出走を区別することも重要です。皆渡さんは第100回大会で登録メンバーに選ばれましたが、当日変更により出走していません。その事実を正確に理解したうえで、大学駅伝の舞台を目指していた競技人生と、病気公表後も箱根を目指したいと発信した思いを振り返ることができます。
皆渡さんの歩みは、スポーツ選手を大会成績や順位だけで評価することの限界も示しています。選手の競技人生には、表彰台や記録に残る結果だけでなく、日々の努力、仲間との関係、目標に向けた準備、そして本人が何を伝えようとしたのかという側面があります。原監督が後世に伝えると約束したのも、そうした人物としての存在だったのでしょう。
【皆渡星七】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:皆渡星七さんの読み方と出身高校は?
A1:読み方は「みなわたり・せな」です。大阪府豊中市出身で、関西大学北陽高等学校を卒業後、青山学院大学経営学部経営学科に進学しました。
Q2:皆渡星七さんの死因は何ですか?
A2:皆渡さんは2024年11月に悪性リンパ腫と診断されたことを、2025年1月19日に自身のSNSで公表しました。その後、2025年2月19日に21歳で亡くなりました。ただし、大学陸上競技部の訃報文には、死因の医学的な詳細や病型、具体的な治療経過は記載されていません。
Q3:皆渡星七さんは箱根駅伝に出走したことがありますか?
A3:第100回箱根駅伝では16人の登録メンバーに入り、7区に登録されていましたが、当日変更により出走していません。2024年11月の全日本大学駅伝でもエントリーメンバーに選ばれていました。
Q4:悪性リンパ腫を公表したのはいつですか?
A4:2025年1月19日です。前年の2024年11月に悪性リンパ腫と診断され、治療を続けていることを自身のSNSで公表しました。「がんになっても箱根を目指したい」というタイトルで、競技への思いも伝えていました。
Q5:原晋監督は皆渡星七さんについて何とコメントしましたか?
A5:原監督は2025年2月21日、自身のXで追悼し、皆渡さんの明るく前向きな姿勢と努力を「チームの宝物」と表現しました。また、「君と出会えて本当に良かったです」と述べ、皆渡さんのような学生がいたことを後世に伝え続けると約束しました。
Q6:皆渡星七さんは2026年現在、活動していますか?
A6:皆渡さんは2025年2月19日に亡くなっています。2026年現在の活動を伝える新たな情報というより、本人が残した闘病に関する発信や、大学陸上競技部・原晋監督による追悼の言葉が、その競技人生を振り返るうえで重要な記録となっています。
まとめ:皆渡星七さんの競技人生と、残されたメッセージ
皆渡星七さんは、関西大学北陽高校から青山学院大学へ進み、長距離ランナーとして大学駅伝の舞台を目指した選手です。第100回箱根駅伝で登録メンバー入りを果たし、全日本大学駅伝でもエントリーメンバーに選ばれました。競技面では5000メートル13分51秒38、10000メートル28分49秒30という自己ベストを残しています。
2024年11月に悪性リンパ腫と診断され、2025年1月19日に病気を公表。その際には、闘病経験をほかのアスリートに伝えたいという思いと、箱根駅伝を目指し続けたいという目標を明らかにしました。しかし、2025年2月19日に21歳で亡くなり、同月21日に青山学院大学陸上競技部が訃報を発表しました。
原晋監督は、皆渡さんの明るさや努力をチームの宝物と表現し、その存在を後世に伝えていくと約束しました。この言葉は、選手の価値が大会での出走や記録だけで決まるわけではないことを示しています。
皆渡さんの経歴や死去の経緯を知る際には、本人が公表した病気の情報、大学陸上競技部の公式発表、報道各社が伝えた追悼コメントを区別して読み解くことが大切です。そのうえで、競技への情熱と、同じ境遇にいる人に経験を届けようとした思いに目を向けることが、皆渡星七さんの歩みを理解することにつながります。 (出典: 皆 渡 星 七(Yahoo!ニュース))